「下の歯の前歯だけが気になるので、ここだけを短期間で安く治したいのですが」。カウンセリングで、私たちはこのようなご要望を頻繁に耳にします。お気持ちは非常によく分かりますが、矯正歯科医の立場からすると、この考え方には大きな警鐘を鳴らさなければなりません。なぜなら、歯列矯正の真のゴールは、見た目を整えることだけではなく、上下の歯が正しく機能する「適切な噛み合わせ」を獲得することにあるからです。仮に、下のデコボコを解消するために歯を並べたとしましょう。その結果、これまで上の歯の裏側にきれいに収まっていた下の前歯が、前に出て上の歯とぶつかるようになってしまったらどうでしょう。それは見た目が出っ歯になるだけでなく、奥歯が噛み合わなくなり、食事をうまく咀嚼できなくなるかもしれません。これは、歯並びを「治した」のではなく、噛み合わせを「壊した」ことになってしまいます。人間の歯並びは、上下の歯が互いに支え合い、影響し合うことで、一つの精巧なバランスの上に成り立っています。下の歯だけを動かすということは、そのバランスを意図的に崩す行為に他なりません。そのため、部分矯正が可能かどうかは、必ず上下の噛み合わせを含めたお口全体、場合によっては顎の骨格までを評価した上で、慎重に判断されなければならないのです。もし、精密検査の結果、噛み合わせに問題があり、下の歯並びの乱れがその一端を担っていると診断された場合は、上下両方の歯を動かす全体矯正が必要となります。一見、遠回りに思えるかもしれませんが、長期的なお口の健康と機能、そして本当に美しい笑顔を手に入れるためには、それが最も確実で安全な道筋なのです。安易な部分矯正は、将来的に深刻なトラブルを引き起こすリスクを孕んでいることを、ぜひ知っておいていただきたいと思います。
歯科医師が語る下の歯の矯正と噛み合わせの重要性