営業として働く鈴木さん(38歳)にとって、下の前歯のガタガタは、長年の「見慣れた景色」だった。十代の頃から少しずつ乱れ始め、三十代に入る頃には、数本の歯が重なり合っていた。だが、男だし、笑っても下の歯はあまり見えない。そんな風に高を括り、彼は何の対策も講じてこなかった。最初の異変は、35歳を過ぎた頃に訪れた。重なり合った歯の間に、食べ物が驚くほど詰まりやすくなったのだ。フロスを通すのも一苦労で、だんだんと口臭も気になるように。そしてある日、冷たい水が歯にしみ、歯医者へ行くと、磨き残しが原因で重なった部分の歯が虫歯になっていると告げられた。治療は複雑で、神経を抜くことになってしまった。虫歯の治療を終えても、彼の受難は終わらない。歯科医からは歯周病の進行も指摘された。歯が重なり合っている部分は歯ブラシが届きにくく、歯周病菌の温床となっていたのだ。歯茎は徐々に下がり、歯は以前より長く見えるようになっていた。そして決定的な出来事が起こる。同僚との食事中、硬めのフランスパンを噛んだ瞬間、下の前歯に「ピキッ」という嫌な感触が走った。鏡を見ると、弱っていた前歯の先端が小さく欠けていたのだ。観念して再び歯科医院の門を叩いた鈴木さんに、歯科医は告げた。「ここまで歯周病が進行すると、まずその治療に専念する必要があります。矯正治療はそのずっと後ですね」。鈴木さんは愕然とした。ただの見た目の問題だと軽視していた下の歯の歪みが、虫歯や歯周病を誘発し、ついには歯そのものを失う一歩手前まで来ていたのだ。「あの時、もっと早く治しておけば…」。彼の後悔は、あまりにも遅すぎた。