鈴木さん(仮名・30代女性)が歯列矯正を決意したのは、長年悩み続けた叢生(八重歯など歯が重なり合って生えている状態)を解消するためだった。カウンセリングでいくつかのリスク説明を受けたが、美しい歯並びへの期待が大きく、特に深刻には捉えていなかったという。治療は順調に進み、ワイヤーによる矯正期間は約二年間に及んだ。しかし、治療終盤のレントゲン撮影で、担当医から思いがけない事実を告げられる。上の前歯数本の歯根が、治療前と比較して明らかに短くなっているというのだ。これが「歯根吸収」と呼ばれる、歯列矯正の代表的な後遺症の一つである。歯根吸収とは、歯を動かす過程で加えられる圧力によって、歯を支える骨だけでなく、歯の根の先端(歯根尖)までもが吸収され、溶けてしまう現象を指す。通常、生理的な範囲での軽度な吸収は多くの症例で見られるが、鈴木さんのように肉眼でも確認できるほど進行すると、将来的に歯がもろくなったり、抜けやすくなったりするリスクが高まる。担当医の説明によれば、鈴木さんの場合、もともとの歯根の形態が吸収を起こしやすいタイプであったことや、硬い骨の中を歯を大きく移動させる必要があったことが複合的な原因として考えられるという。幸い、日常生活に支障をきたすほどの重度な状態ではなかったため、これ以上の吸収を防ぐために治療計画を修正し、最終的な仕上げを早めて保定期間に移行する方針が取られた。この事例は、歯列矯正が単に歯の見える部分を動かすだけではないことを示している。目に見えない歯根や歯周組織に大きな変化をもたらす、極めて専門的な医療行為なのだ。歯根吸収のリスクを完全に予見することは現代の医療でも困難だが、治療前のCT撮影による詳細な診断や、治療中の定期的なレントゲン検査によって、その兆候を早期に発見し、ダメージを最小限に食い止めることは可能である。これから矯正治療を考える人は、このような静かに進行するリスクの存在も理解した上で、慎重にクリニックを選び、医師と密なコミュニケーションを取ることが求められる。